【新春対談】年男音楽家 坂本英城氏と成田勤氏が語る、ゲーム業界を目指した日々、若い世代への想い。光田康典氏からのコメントも!

年男を代表して、ゲーム音楽の匠が語り合う!

 ファミ通の新年恒例となった、年男対談企画。2019年には、新川洋司氏×直良有祐氏×岸田メル氏の亥年アーティストクロストークと、田畑端氏×稲葉敦志氏の亥年クリエイター対談をお届けした。

 2020年は、ゲーム音楽業界の子年代表として、坂本英城氏と成田勤氏が登場。同じ子年でも12歳の差があり、ベテラン&若手として活躍するおふたりに、音楽活動を始めた経緯や作曲のスタンス、そして、次世代を担うさらに若い子年世代について思うことをうかがった。異なる個性でありながら同じ志を持つおふたりのお話を、じっくりとお楽しみください。

坂本英城氏(さかもと ひでき)

1972年生まれ。東京都出身。ノイジークローク代表取締役CEO、作曲家。代表作は『大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL』メインテーマ『命の灯火』、『三國志14』など多数。2020年初頭リリース予定の『ウインドボーイズ!』で吹奏楽の楽曲制作に初挑戦。

成田勤氏(なりた つとむ)

1984年生まれ。東京都出身。フリーランスで活動するゲーム音楽家。『グランブルーファンタジー』、『グランブルーファンタジー ヴァーサス』、『グランブルーファンタジー ジ・アニメーション』、『ファイナルファンタジーXIV オンライン拡張パック:戦友』などで作曲を担当。

干支ひと回りのギャップ

――おふたりは、ちょうど干支ひと回り年齢差のある年男ですね。

坂本そうなんですってね。ビックリしました。

成田(笑)。坂本さんが僕より年上なのはわかっていましたけど、ゲーム音楽家の皆さんは年齢不詳ですよね。アクティブな方ばかりで。

坂本本当にそうですね。いまゲーム音楽家として活躍しているのは、僕よりも少し上の年齢の方がいちばん多いくらいですから。

――それはどうしてでしょうか。

坂本幼少期にファミコンに夢中になった世代だからだと思います。そういう人たちの将来なりたい職業であり、サウンドクリエイターという職種が確立されてきた時代だったので。

――ファミコンの影響力は絶大ですね。

成田ちなみに、自分が小学生のころに遊んでいたのは、スーパーファミコンでした。

坂本え! 僕はゲームウォッチだったよ。

――ここで12年の差が(笑)。

成田自分は根っからの『ファイナルファンタジー』&『ドラゴンクエスト』っ子でしたね。小学生のときに初めて遊んだのが『FFV』(1992年の作品)だったんですが、それを植松伸夫さんに話したら、「はあ?」と驚かれちゃいました(笑)。

坂本うーん。『FFV』は、僕のプレイを横で見ていた祖母が感動して泣いていたな。

一同 (笑)。

子供時代に遊んだゲームの思い出

――成田さんはどんな子ども時代を過ごしていたんですか?

成田ピアノの教室をやっている家で育ったので、自分も子どものころから趣味で弾いていたんですよね。それで「一度発表会に出てみたら?」と言われて、『FFV』の『はるかなる故郷』を弾いたんです。それが初めて人前で演奏した経験になりました。

――主人公の故郷で流れる曲ですね。いい曲。

成田ですよね。『ピアノコレクションズ』から選びました。当時は“楽しいバイエル併用”シリーズなどの楽譜を親に買ってもらっていたんですが、「楽譜になるまで待てない」となって、耳コピを始めたのが小学6年生くらいのころでしょうか。それが『クロノ・トリガー』(1995年発売)の『魔王決戦』でした。

坂本そうそう。当時は耳コピして弾くというのが主流だったよね。好きなものを夢中で追いかけると、勉強だと自覚していなくても勉強になったものです。それに、ゲーム音楽って、何度もくり返し聴くものだから、みんなが曲を覚えていて。弾けると鉄板で学校のヒーローになれるという(笑)。

成田それがまたうれしくて(笑)。

――坂本さんがゲーム音楽家を志したのは、『DQ』の影響が大きかったそうですね。

坂本はい。僕が最初に遊んだのは『DQII』(1987年発売)でした。それですぎやまこういち先生の楽曲はめちゃくちゃすばらしいと思ったんです。中学3年生ぐらいのときに家にパソコンがきて、『イース』(1987年発売の1作目から続く名作RPGシリーズ)がものすごくよくて、そこからその音楽を手掛けた古代祐三さん漬けになりましたね。

成田自分は『サンサーラ・ナーガ2』(1994年発売)も好きでしたよ。余談ですが『サンサーラ・ナーガ』シリーズは、押井守さんや川井憲次さんという、『機動警察パトレイバー』のアニメーションを手掛けたスタッフが中心となって制作したRPGで。イラストはほのぼのしているんですが、輪廻転生をテーマにしていて世界観がすごく重たいんです。それで、当時エンディングのスタッフロールを最後まで見ると、セーブデータが消える仕様があって。「輪廻転生がテーマだからか」と驚きました(笑)。あとは『聖剣伝説』も好きでした。けっこういろいろ遊んだけれど、やっぱりスクウェア・エニックスさんのRPGが多かったですね。

作曲を始めた青年時代

――おふたりが作曲家になることを決意したのは、いつごろだったんでしょう。

坂本僕は中学2年生ですね。クラシックを聴くような家に生まれて、4歳からピアノを始めたので、自然に音楽が好きになって……。ゲーム音楽を知って、「僕にはこれしかない」と確信したんです。でも父親は、「こんなものが職業になるのか? 公務員になりなさい」という反応でしたね。それに「はーい」と返事をしつつ、従う気持ちはぜんぜんありませんでした。

成田自分はゲーム音楽だと決めていたわけではないですが、高校2~3年生ごろに作曲家になろうと思いました。坂本さんと同じように、親には反対されましたが。

坂本まあね。人の親になったらわかりますよ。やっぱり、音楽業って不安定だから……。

成田自分の両親が演奏家なので、なおさらそのきびしさを知っているんですよね。半年以上、会うたびに説得して、やっとオーケーしてもらってからは応援してもらっています(笑)。

――成田さんは、20歳のときに吹奏楽の楽曲を発表されていますよね。

成田はい。それが音楽で初めて対価をいただいた経験でした。自分はもともと吹奏楽や合唱の伴奏をしたり、バンドをしたりしていたので、「どのジャンルの何をやりたいか」という気持ちがなかなか固まらなかったんです。

坂本ちなみに、当時はどうやって作曲していたの?

成田Cubase(ドイツのスタインバーグが開発したシーケンサーシリーズ。演奏データを再生して自動演奏を行う)の機能にある譜面で作曲していました。当時はまだしっかりとした譜面製作ソフトを持っておらず、シーケンサーの機能にある譜面で代用していましたので、すごく見づらかったんですけど。

坂本僕の時代にはCubaseさえなかったなあ(笑)。僕と成田さんでは、制作環境はまったく違うんでしょうね。しかも機材の値段もめちゃくちゃ高かったし……。

成田あの時代の作曲家のスタジオには背の高さくらいある19インチのラックが、3~4列くらい並んでいることがふつうで。個人のこだわりでそうなっているというよりは、それが必須みたいなところがありましたよね。

坂本全部外部音源から音が出ているので、それをとりまとめるミキサーがまずあって、録音する機材があって、みたいな感じでね。1台何十万円、何百万円というものがずらっと。いまじゃそれが、PC1台で完結するのに。

――音楽を目指す若者が、それをそろえようとすると本当にたいへんですよね。

坂本ぜんぜんムリです。だから、ほかの人は誰かが使わなくなったものを譲り受けたりしていたみたいです。僕はそういうこともできずに、JVというローランドが出していたシンセサイザーを1台だけ使って、本格的に作曲をスタートさせました。それが大学生のときです。

成田自分のシンセサイザーは、その1世代後のXVでした(笑)。

坂本おおー! もう超うらやましい(笑)。

成田初めて買ったマスターキーボード(複数のシンセサイザーを制御するためのキーボードのこと)は、RD-700でした。

坂本僕はEOSというヤマハのキーボードでした。小室哲哉が宣伝してるから買おう、みたいな(笑)。というか、DX7(1980年代に音楽をやっていた人の定番かつ憧れのシンセサイザー)が高くて。だからその半値以下で買えるEOSを買ったんですよね。

成田僕が初めてシンセを買ったのは高校生でしたね。KORGのTRITONが高くて買えないでいたら、TRITON Leっていうコンパクトで軽い機種が出たのでそれを買いました。いまはどんどんポータブルなシンセが出ているじゃないですか。電池駆動ができるような。ある意味それの先駆けみたいなものでしたね。

坂本じゃあ、作曲するときはシンセに内蔵されたシーケンサーを使っていたのかな?

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成田いちばん最初はそうでした。

坂本なるほど、そこがまず違うんですね。僕が高校生のときのシンセは、中にシーケンサーなんて入っていないから、カセットテープに多重録音して編集できるカセットMTRを使っていたんですよ。その後MDのMTRが出て、ハードディスクのMTRに進化していくわけですけど。そういう機能も含めて、いまやPCで全部できる時代ですからね。

不遇の時代を送ったあのとき、思わぬ幸運をつかんだあのとき

――その後、おふたりがゲーム音楽を作り始めたころのお話を聞かせてください。

坂本僕は大学を卒業してからほんの一時期だけ音楽業界に入りましたが、その仕事の多くはアーティストの世話や運転手でした。もちろんそこでスタジオワークなども勉強させてもらいましたが、「やっぱり自分で音楽を作りたい」となって……。その仕事先を離れて、バイトをしながら完全にフリーランスとして楽曲を作り始めました。

――最初に携わったのは、どんなゲームの音楽でしたか?

坂本プレイステーションのゲームでした。それまでのゲーム音楽を根底からひっくり返す最新のゲーム機に対して、音楽が提供できる喜びを噛みしめましたね。曲数も、100曲はあったかな?

――いきなりでそれはすごいですね!

坂本でも、なかなか自分の名前を出せる機会に恵まれなかったんです。そもそもメーカーから直接仕事をもらうには、会社を興して契約する必要があったんですね。フリーランスの僕にはそんな資金もなくて、あいだにデベロッパーが入ったり、ほかの作曲家さんのお手伝い扱いになったりして、仕事をしてもスタッフロールに名前を出してもらえないこともかなりありました。

――実績を示してつぎの仕事につなげるためにも、名前を出したいということですね。

坂本そうなんです。これがトップクリエイターなら話は別ですが、当時はいまほどゲーム音楽に対して価値を見出してくれる時代ではなかったので。悔しかったけれど、名前が出せるようになることを目標にして、がんばりました。

――成田さんは、やはり植松さんとの出会いが大きいんでしょうか。

成田そうですね。もともと僕は植松さんのファンで、昔植松さんが配信していたラジオのリスナーだったんです。あるときそこで「何か特技のある人を募集します」という、すごくゆるい募集があったので、さっそく音源を送ったんですね。すると、「これを打ち込みの音源にしてほしい」と、当時植松さんが進めていたプロジェクトのメインテーマの譜面が送られてきたんです。

坂本要するにマニピュレートの依頼ですよね。力試しということだったのかな?

成田ちょうど時間があったので、ひと晩で送り返したら、「植松さんの事務所で直接会いませんか?」と誘っていただいたんです。

坂本すごいチャンスをつかみましたね!

成田頭が真っ白な中でお話をするうちに、植松さんに「アレンジに興味はある?」と聞かれて。自分がふだんやっていることでもあったので「やりたいです」とお返事をしたのがきっかけで、その後お仕事をいただくことになりました。

坂本すごいなあ。そんなのアリなんだ(笑)。それがいくつのときだったんですか?

成田24歳です。そのときにやったのが『グイン・サーガ』というアニメの楽曲のアレンジだったんですが、初期の作業をひと通り終えた後に、それが『グイン・サーガ』の曲だと初めて教えてもらったので、ひっくり返りました(笑)。いまでも信じられない話です。

坂本きっと、やりとりするうちに仕事ができる人だとわかったからでしょうね。しかも翌日に仕上げたわけですから。そういう才能を持つ人がいたら、誰だって会ってみたくなりますよ。

成田当時はオーケストラや吹奏楽の譜面が書けて、かつ、打ち込みやバンドものも作れる人は少なかったのだそうです。レスポンスの速さもそうですが、そこがよかったみたいです。

――成田さんは、『グランブルーファンタジー』の仕事をつかんだということでも、見事にチャンスをモノにしているという感じがします。

坂本僕もそう思います!

成田『グラブル』の仕事も、植松さんに誘っていただいて、自分が引き継ぐ形になりました。最初は植松さんが11曲書いて、追加の9曲を自分が書いたところからスタートしたものが、この記事が出るタイミングには100曲ほどになっているという(笑)。自分でも、こんなにたくさんの楽曲を書くことになるとは思っていませんでした。

坂本いまや、サイゲームスさんの看板作品だもの。

成田最近の曲は、1曲5分くらいあるのがふつうなので、ボリュームも相当あるんですよ。

坂本えっ、そんなに長いんですか?

成田いまのところ、いちばん長い楽曲は12分あります。最難関バトルでも、いろいろと攻略法が確立されてくると、討伐タイムは短縮されますが、初見時は何十分とかかるものなんですよ。だから、ディレクターさんからも「長めの尺でお願いします」と、オーダーがくることがあって。「よっしゃ、やるぞ!」と取りかかったら、10分くらいの曲ができちゃった(笑)。

坂本気合が入っているなあ(笑)。

成田それで「やりきった!」と思っていたら、その翌年ぐらいに「あの曲と同程度の尺でお願いします」と言われて、頭が真っ白になるという(笑)。

坂本12分ってたいへんだ……。

――『無限回廊 光と影の箱』で約75分の楽曲を作って、ギネス記録を持っている坂本さんがそれをおっしゃいますか?(笑)

坂本失礼しました(笑)。しかし、成田さんはすごいですね。植松さんが求める作風を持っていたことでゲーム音楽の仕事に就いて、そこからどんどん活躍の場を広げていると言いますか。一方の僕は、さっきお話ししたプレイステーションの仕事を受けるまでに、本当に苦労しましたからね。とにかく、どこに履歴書を送っても全滅で……。

成田おおお……。

坂本「もうひとりでやる! オレさまの実力をわからないのが悪いんだ」と、中二病をこじらせたみたいな心境になってしまって(笑)。でも、いま聴き直すと信じられないくらい低いクオリティーのデモ音源を送っていたんです。ただの世間知らずでした。

成田いやー……。自分も昔のデモ音源は聴けないですよ、怖くて(笑)。

――でも、坂本さんはそこで腐らずに会社を立ち上げるところまでいかれたわけじゃないですか。

坂本そうなんですよね。やっていることの規模こそ大きくなりましたが、仕事に取り組む姿勢は当時と何ひとつ変わっていません。

――成田さんはどこかの会社に入ろうとは思わなかったんですか?

成田そうですね、やりたいものがいくつもあったので……。学校にしても、クラシカルなものと、打ち込みやバンドの音楽、両方の勉強ができるところは当時はなかなか無かったですし。「将来的には劇伴もやってみたい」という思いもありましたし、何かひとつに絞ると、それ以外のことができなくなるという心配があって、どこかの会社に入って音楽をやる、という考えにはいたりませんでした。

坂本その感覚は僕とまったく同じですね。メーカーに入ったら、そこのゲームにしか携われませんから。これは決して、メーカーに所属している方たちを否定しているわけじゃなくて、僕が目指していたことが、フリーランスというスタイルに合っていたということです。

成田そうですね。そのために音楽以外のバイトもたくさんしました。

坂本ちなみに何をやったんですか?

成田いちばん長かったのは某牛丼チェーン店のバイトですね。5~6年はしていました。

坂本おっ、僕は某ファストフード店!

一同 (笑)。

成田でも途中で「これじゃいかん」となって、自分で逃げ場をなくそうと奮起するんですよ。

坂本わかる。フリーランスあるあるですよね(笑)。

成田最低限そろえるべきマスターキーボードと音源、シーケンサーはバイト代で買えたので、残りのお金は将来につながる時間に使おうと思って。本当に生活がきびしくなってきたときに短期のバイトをする、ということをくり返しました。イベントの設営やポスティング、電話対応にデータ入力、会社の機材の棚卸、郵便物ののり付けのチェックなどなど……、本当にいろいろなバイトをしましたよ。

坂本ああ、僕もいろいろ思い出すなあ……。当時住んでいた家はプロパンガスだったんですけど、料金を取りにきたガス店のおじさんに「すみません、今月も払えません」と謝ったら、「いいよいいよ、半年まとめてで。応援してるよ」と言われたこともありましたっけ。

成田植松さんからも聞いたことがあります。ガスも電気も止められて、カップラーメンに水を入れて食べたとか。

坂本(笑)。最初はみんなそうですよね。でも、それはそれで不幸せじゃないんですよね。お金が少しでもあれば機材に充てたかったわけですし。

成田そうですよね。好きなことをしているわけですから。

坂本最初から仕事があるはずがないんですよ。とくに音楽なんて、自分がどんなものを作っているのかを人に伝えることが難しいですし。

――人に絵を見せるのと音源を聴かせるのとでは、ハードルの高さが違いますね。

坂本最初にエンジンをかけるまでが本当にたいへんですし、うまく仕事をもらえて、やり遂げてもスタッフロールに名前が載らないということもありますから。成田さんはそういうジレンマはありましたか?

成田幸い、ドッグイヤー・レコーズ(植松氏が設立した音楽制作会社)の方が仲介に入ってくださる場合が多かったので、条件的に困ることはあまりありませんでした。自分単体に仕事をいただくようになったのも、最近になってようやくですし。でも、アレンジャーとして認知されすぎてしまった感じもしていて。もちろん、自分としてはアレンジも大好きですし、ありがたいことなのですが、将来メインでやっていきたいのは、どちらかと言うと作曲でしたので。

坂本ああ、とくにフリーランスだと、そういうブランディングは難しいですよね。「自分が何になりたくて、今後はどんな活動をしていきたいか」というのを明確にして、支障となる実績を作らないようにするというコントロールが必要だと思います。

成田スタッフロールに関しては、随分改善はされていると感じます。自分より上の世代の皆さんがそういうことで苦労されて、下の世代がそうならないように働きかけてくださっているので。

坂本やったことをやったと言えるというのは、考えてみれば当たり前のことなんですよ。うちの会社では、効果音制作を担当したサウンドデザイナーも、楽曲を生演奏した場合には演奏家の名前も、正確な情報をきちんとクレジットに出すということを徹底しています。僕がしたイヤな思いは、ほかの人にはさせられませんから。